岡山の城下町は、17世紀中ごろ人口の増加によって町は膨張しました。
そこで寛文6年(1666)藩は栄町に時鐘をおき、鐘撞きには、ときや叉右衛門と下男3人の給銀として、年々銀一貫目を藩が支給しました。
高崎にあった時鐘は、鐘の撞き方によって火事の報知となったことが、『藩法令集』五、高崎藩、「鞘町火之見番人井鐘撞之事」という資料に見えています。
この鐘撞4人の給米が1年20俵、鐘撞堂修復の節は手伝人足が惣町から出ることになっていました。
・・・ところが寛政3年(1791)9月29日、鐘撞人がうっかりして、明六ツ時を3分ほど遅刻して撞いてしまいました。
これが分かって御月番から餐めをうけ、鐘撞人には免職、5日間の投獄が申しつけられましたが・・・
その後罰金百文でゆるしてもらったという事件が起こっています。
いまの時間で約20分ほど遅れて撞いたために厳しく罰せられたわけで・・・
まだD&G 時計のない時代、時刻の管理が江戸時代においてすでにいかに厳格に行なわれていたかを示すものとして興味深いですよね。